虚構
虚構と言われてみんなはどんな風に思うだろうか?
あまりいい印象は持たないのではないだろうか?
辞書で引くと以下のような意味になる
ではこの世界が虚構で成り立っていると言われたらどう思うだろうか?
そんなはずはないと誰もが思うのではないかと思う
だがそういう風に主張している書籍があった
最近読んだ本でサピエンス前史という書籍になる
この本では人類は虚構によって繁栄したとある
人々は少数ではお互いのコミュニケーションによって意思の疎通を図り、集団を構成する事ができる。しかしある程度以上、100人以上の単位となってくると人々は虚構を持ってしかまとまる事は出来ないと。ここで言う虚構とは古代では神話、現代では法律、宗教、国家、会社などを言う。
法律、国家などは本来、実態を持たないただの概念に過ぎない。それが意味を持っているのは人々がそれを支持し、信じ、従っているからだ。過去の慣習や観念などが意味をなさないように現代の法律、国家という概念も未来にはなんの意味も持たないかもしれない。
興味深かったのは虚構によって人類は見ず知らずの人々の協力を可能にし、国家という単位までの大規模な構成人員を得るに至ったという所だ。理屈としては分かるが、そのような発想はなく新鮮だった。
そうしてみると現代の世の中はほとんどが虚構によって成り立っていると言える。金融、法律、国家、会社、会計、等々、それらは本来、実態を持たない概念に過ぎない。そしてその虚構によって、それを疑う事を知らず、そうである事を知らずに、そうである事に注意を払わずに生きている人々のなんと多いことか!
現代において人が他の人に影響を与える為に最も強力な能力と言えば、それは虚構を作り出す能力だろう。スティーブンジョブズはスマートフォンという虚構を生み出した。スマートフォンは実体を伴うものではあるが、人々が惹かれたのは虚構の部分だ。
スティーブンジョブズは現実湾曲フィールドを持っていたという。
これは虚構を人々に浸透させ、信じ込ませ、広めるための能力だろう。
現状で虚構を作り出すのが最もうまい職業の人はコンサルタントだろう。彼らは何一つ実体を伴わず、主に彼らが作り出す、ストーリー(虚構)によって人々を引き込み、それで報酬を得ている。起業家にコンサル出身は多い。
そして真実とはそれを真実と信じ込ませたものが真実となるという事になる。真実とは概念であり、それすらも虚構に過ぎないのだ。
虚構という機構を知ってしまうと、一種の虚無主義的な思考に陥ってしまいがちだ。自分が好きな漫画の銃夢に次のようなセリフ(うろ覚え)がある。
「この世界が全て物理法則の結果に過ぎず、心が脳内の科学現象に過ぎないとしても、我は自分の意思で命じる。生きよと」
ディベートについて
ディベートという物を知っているだろうか?
自分は何かしらの議論などのテクニックという認識しかなかった。
図書館でランダムに書籍を見ていた所、「ディベート (図解雑学)」という本が目に止まり、借りて読んでみた。
https://www.amazon.co.jp/dp/4816341897
この書籍によるとディベートとは、特定のテーマを肯定側と否定側に分けて、互いに意見を戦わせ、論理的な優劣を競う論理ゲームの事を言うらしい。肯定側には立証責任があり、否定側には反証責任が生じる。
興味深かったのは批判された場合、必ず反論しなければならないという点だ。思ってもいない事でも論理的に正しければそれが正となるが故の反論なのだろう。
それぞれのテーマの知識、議論の構成、戦法、相手がどこを突いてくるかなど、様々な事が想定されるので、知的なゲームとしては楽しいのかもしれない。
そもそも私はなぜ「ディベート」などに興味を持ったのか?私は弁護士でも政治家でもなく、議論に勝たなければならない場面などほとんどない。
それはcakesという本やブログが読めるWebサービスでイギリス在住で海外の事を紹介している日本人の方(May_Romaさん)がおり、その中で海外の管理職、幹部層は学生時代から徹底的にディベートを叩き込まれるという記事を読んだからだ。
海外ではいつ部下に訴訟を起こされたり、寝首をかかれるか分からないらしい。その為、論理武装し、議論に負けないように学校の教育過程からディベートを叩き込まれるとの事だ。
海外の人は大変だなと思う反面、ディベートの論理的な説得や証明、反証はリーダーシップや指導的役割を担う場合は日本でも必要であろうスキルだと思う。さてそれではそれを身につける実践の場は日本にあるのだろうか?くぐってみると以下のような物が日本でもあるようだ。
論理的な議論という事についてはディベートは有用だとは思うが、日本人は上下関係を重んじて、議論自体好まない事もある為、論理的であればいいという訳でもない。その辺りはバランス感覚が必要だと思う。日本で対等な立場以外でディベート的な議論を行えばほとんどの人が嫌がるのではないだろうか。
また議論に勝てばいいという物でもない。日本では「言い負かされた」という言葉もあるので議論に勝っても後で恨みに思われる事もあるだろう。「負けるが勝ち」のケースも往々にしてあると思う。
日本でテレビでやっている討論などは全くディベート的ではないと思う。基本的に相手が話している所にかぶせて話して、相手の考えや意見を形骸化するようなしょうもないテクニックばかり使っている。
ディベートの動画は下記のように幾つかあるようだ。
上記動画は見てみたが正直イマイチだなという感想。史上最強と銘打っているがそれが逆に安っぽくしているように思う。そもそも何で3対1になっているのかが分からない。
会議などで意見が出にくい時などの打開策としてディベートをするのは面白いかもしれない。論理ゲームとして議論する事で心理的な壁を突き破って、創造的な面白い意見が出てくるかもしれない。
プログラミングの適正について
日本でもプログラムを必修にしようかという議論が始まっているようだ。
またアメリカのオバマ大統領もプログラミング教育を推している。
オバマ氏、「すべての人にプログラミングを学んでほしい」Code部
このように昨今、IT化された社会においてプログラミング教育が重要視されているのが現状だ。
しかし実際にプログラマとして働いた事がある人なら誰でも分かっている事だが、プログラミングには適正がある。適正がないと思われる人はなかなかプログラムをサクサク書けるようにはならない。
情報元は忘れてしまったが、欧州でプログラミングの適正を調べる調査を行った記事を見た事がある。その記事によるとランダムにプログラミングの適正を調べる調査を行い、その結果、プログラミングの適正はいい大学を出ているとか、文系、理系は関係なく、プログラミングに向いていない人は全体の半分近くの割合だったそうだ。
プログラミングができるというのは頭がいいと同義のように思われている事が多いが、この記事によると学校の成績がいい、頭がいいからプログラミングができるという事は=(イコール)ではないという事のようだ。
ある一定割合の人は論理的に物事を考える事が苦手な人がいるらしい。そういう人は抽象的に物事を捉える力が高く、それによって一概に頭の良し悪しは決められないそうだ。
実経験として日本の有名大学を卒業した高学歴の人と仕事をした事があるが、そういう人の中でも向いていないだろうなという人はいた。ただ高学歴の人の方が相対的に仕事の面においても優秀である事は間違いないと思う。
こんな記事もある。
プログラマーは適性(向き不向き)で9割決まる | SE年収1000万までの道のり
現状の教育方針では入り口からプログラムの適正を調べて、適正のある人だけプログラミングの教育をするのではなく、公平性の観点から全員に行うようになっている。
適正があって、教育を受けなければプログラミングに興味を示さないような人には有効な施策であると思うが、適正がない人にとっては悪印象しか残さないような結果になるのではないだろうか。
また適正がない人が教育を受けたからといって、実際に職業として選択してしまった場合、不幸な結果になってしまう。
公正性は重要だと思うが、まず入り口で適正を診断して、その結果を当人が踏まえた上で選択できるようにする方がいいのではないだろうか。
そのようにすれば後々、専門学校や大学で高い学費を払って、卒業後、企業に就職する時、または、した後に適正がない事が判明するような悲劇は起こらないだろうと思う。
努力が才能に勝るというのは往々にして嘘だ。子供たちに成功者の美談によって夢を与えるだけでなく、シビアな現実も伝えていく事が大人の誠実な態度ではないかと思う。
東京からの富士山日帰り登山
一生に一度は行ってみたいと思っていた富士山登山。遂に行くことができました。
眼前に広がる雲海、日本一高い所から見る景色は最高でした。
登山スケジュール
当日のスケジュールは下記のような感じです。
- AM5:00 出発
- AM10:00頃 富士山5合目から登山開始
- PM16:00頃 頂上到着
- PM17:00頃 下山開始
- PM20:30頃 下山
- PM20:50 東京に向けてバスから
- PM24:00頃 帰宅
ギリギリ当日富士山登山ができた感じです。後記していますが、高山病などあるので、富士山登山は慣れていなければ2日間ぐらいの余裕を持って臨んだ方がいいと思います。
事前に富士山5合目からの登山時間を調べてみると登りに5〜6時間、下りに3時間ぐらいかかるとの事でした。実際はもう少し早く登れるだろうとタカをくくっていたのですが、結局登り6時間、下り3時間かかりました。
高山病
多分軽い高山病にかかりました。若干の頭痛と頂上では少しの吐き気を感じました。ただ食事は取れる程度の吐き気です。 高山病に関しては今まで調べた事もありませんでしたが、今回の経験で調べた下記リンクなどが参考になるかと思います。
これを見てみると富士山のような高い山を早く登ってやろうとか思うのは禁物のようですね。私は早く登ってやろうと思っていました。バカですね。
富士山登山で高山病対策と知識は最重要かと思いますので、富士山に初めて登る方は是非、上記リンクなどを参考にして高山病対策をしておきましょう。
体力面と登山経験
普段の運動ですが、ランニングなどはしておらず、間に休憩を入れながらのゆっくりとしたスクワット100回を週に2回ぐらいやる程度です。
登山経験は冬山などは怖くて行ったことがなく、コースも分かりやすいコースしか登らないような初級者レベルの人間です。岡山県出身で大山 (鳥取県) - Wikipedia(標高:1729m)に年に1から2回ぐらい登る程度でした。 登りに6時間もかかるような登山経験はありませんでした。
体力的には、今まで行った登山の中では一番きつかったです。頂上近くになると2〜3段くらい登って、少し休憩して、また少し登るという繰り返しでした。ただこれは周りの登山者も同じで、よほど体力に自信があり、登り慣れた人以外はそんな感じになるのかもしれません。 また高山病対策もありますので、富士山は早く登るより、高地順応しながらゆっくり登る方が重要だと思います。
頂上付近でかなり太った外人の方を見かけており、よく登ってこれたなという印象を受けました。普段全く運動していないような人でも登る事は可能かと思いますが、ランニングやスクワットなどの運動を少しでもしていれば、体力面で登頂を断念する事はほとんどない思います。
登山者
外国の方がすごく多いです。特に中国人が多く、外人と日本人の登山者の割合で言えば、半数以上が外人じゃないかなという印象を受けました。
低山では60歳以上の高齢の方をよく見かけますが、富士山ではほとんど見かけませんでした。登山者は20〜50代ぐらいが中心かなと思います。小学校の低学年くらいの子も中にはいました。
服装
富士山は真夏でも氷点下になる事があるそうです。ジーパン、Tシャツのお散歩気分で登っている人も中にはいましたが、最低でも長袖は持って行った方がいいです。 頂上付近は天気がよくてもかなり寒いです。
なぜ登山するのか?
趣味でたまに山登りします、と答えると何が楽しいの?とよく聞かれます。そのように聞かれたら「多分バカだから高い所が好きなのと、頂上の何とも言えない気持ちよさの為」と答えています。
そして登山をしていると、もう少し楽に登りたい→運動しよう、という普段運動する為のモチベーションになります。
運動する為のモチベーションって痩せたいとか健康の為とかがありますが、自分は体型は普通で、健康に不安がない為、運動の為のモチベーションがあまりないので、これは結構有効な動機になります。
登山道
登りは吉田ルート、下りは須走ルートを使用しました。このルートがおそらく初心者にはベーシックなルートなのだと思います。
登りは最初は人工的な道が多く、面白くないなと思っていましたが、6合目ぐらいからはむき出しの山道になります。ただ危険な所などは、山道左右に手すりのようなロープなどがありますので、初心者でも大丈夫だと思います。また登りは各所に食事などが取れる山小屋が多数あります。値段はもちろん高いですが、利便性という意味でも日本一なんじゃないかと思います。
下りはかなり下りやすい整備された山道になります。大半は海などの砂浜を少し硬くして砂利を混ぜたような道で衝撃も少なく、おそらく日本で一番下りやすい山道ではないでしょうか。
最後に
今回は単独行でしたが、富士山は友達とかと行って、宿泊とかもしてみたら楽しいと思います。富士山から眺める雲海は最高でしたので、夜空や星空もとてもいいと想像できます。今回の富士山登山は高山病対策と今度は宿泊、という楽しみができました。
まだ富士山に行っていない方はそれなりに準備して、富士山登山を楽しんでみてはいかがでしょうか。おそらく今までに経験した事のない感動と、今までに経験した事のない登山のつらさ(笑)が味わえると思います。
東京都立中央図書館のIT系書籍
東京都立中央図書館に行ってきました。
http://www.library.metro.tokyo.jp/
phpunitの勉強を今行っており、その為の書籍やまた何か興味惹かれる技術書などあれば借りようと思ってました。
しかしIT系の書籍は古い物ばかり。しかも設計と言語の本が一緒にあったりと分類もめちゃくちゃ。索引の関係でしょうがないのかもしれませんが。。
自分は地方の岡山出身ですが、岡山の図書館の方がIT系の技術書はまだ多いかも。
大きな公園の中にあり、雰囲気と外観、内観もいいのに中身が伴っていないようで残念でした。
楽しみして行ったのですが、日本最大級の蔵書量を誇る図書館でこれです。
IT系の書籍を求めるなら、もう大型書店かアマゾンでポチるしかないかなあ。
IT系のレベニューシェアでの起業に関して
ITエンジニアをして、いろいろな交流を持っているとレベニューシェアでIT系のサービスを立ち上げて創業しないか?という話を頂く事がある。
そのような話を持ってくる方は大体が非エンジニアの方だ。
自由に使える金銭に余裕がなく、銀行などから融資を受けられない、または、受けたくない。助成金は条件を満たせなくて受けられない、または知らない、条件を満たすのが面倒だ、などがレベニューシェアで起業しようという動機だろう。
私はレベニューシェアでの起業のお手伝いというのは全てお断りしている。その理由に関して今回は書きたいと思う。
起業コストが等価ではない
レベニューシェアで例えば3ヶ月実装にかかるシステムを開発する必要がある場合の事を想定してみると、3ヶ月=20日×3=60人日の工数がかかる。
これを金額に換算するとエンジニアの時給が大体3,000円〜4,000円なので1日8時間として、8時間×60人日×3,000円=1,440,000円かかるという事だ。
つまりエンジニアはまともに働けば1,440,000円稼げる時間を起業の為に投資する、イコール、1,440,000円を投資しているのと同義になる。
同じエンジニアが同じ時間を投資した場合、起業コストは等価と言えるだろう。しかし、アイデアの提供や営業、マーケティングの実施者がシステムの開発にかかるのと同じ時間をシステムのリリース前に投下する事は通常考えられない。
今までにないアイデアとか、20年暖めていたアイデアとか、すごい人脈がある為すぐにサービスが広まるとか、そういう事に価値を見出している人がいるが、そこは実現、または、実施され、利益が出てから初めて価値が生じるものでアイデアや人脈それ自体には単体での価値はない。
要するにレベニューシェアでITサービスの起業をする場合、ITエンジニアは非エンジニアの方と比べるとフェアでない初期投資をしなければならないという事になる。
Webサービスなどでの起業は確率の低いギャンブルと同じ
アプリやWebサービスなど世の中にはありとあらゆる様々なWebサービスやアプリが生まれては消えていっている。この中で世の中に広く認知され、大きな利益を上げているサービスがどれだけあるだろうか?ゲームなどマネスタイズのノウハウが確立されている分野を除けば、確率的には5%未満なのではないかと思う。
つまりエンジニアがWebやアプリなどのサービスでレベニューシェアで起業する事は時間=お金を投資するのと同義なので、競馬で万馬券を狙って、大金をつぎ込むのと同じような事になる。
まとめ
私がレベニューシェアでの起業をお断りしている理由をまとめると、非エンジニアの方と組む場合、初期投資がフェアでない事とIT系サービスの起業自体がギャンブルのような物であるという認識を持っている為だ。
起業=お金の工面
そもそもレベミューシェアを提案するぐらい自信のある企画であれば、助成金や投資家、または、クラウドファインディングでの投資などでお金を工面するべきだろうと思う。
ただ銀行からの融資(借金)を受けてまでの工面はしない方がいいと思う。前述したようにIT系サービスが当たる確率は非常に低いためだ。
それでお金を集められないようであれば、そこまでの企画だし、アイデアが漏れるのが嫌だという理由でそれをしない人がいるが、アイデアは実行されて初めて価値が出るものなので、結果、無価値の物をいつまでも大事に抱えてしまう事になる。もし漏れたとしても一番初めにサービスを始めたという事が、そのサービスの生き残りに直結する訳ではない。また可能であればビジネス特許などを取得してしまえばいい話だ。
もしレベニューシェアに乗るとしたら
まだお金を貰ってシステムの開発に従事するだけの経験がなく、時間が余っているような学生さんであれば、就職などのセルフプランニングやあわよくば大金をという理由で、レベニューシャアでのIT系サービスの開発に参画するのはメリットがあるかもしれない。
しかし、プロとしてシステム開発に従事する実力と経験がある人が、非エンジニアの方とITサービスをレベニューシャアで起業する事は、デメリットを超えるメリットがあるとは私には思えない。
やるとしたら利益が出せる本業がある状態で、受託や請負での開発は嫌だけど可能性があると思える企画をやってみたい、というような場合だろうか。ほとんどの人が当てはまらない限定的な条件になってしまうが・・。
最後に
ここに書いてある事は私の考えを書いているだけで、すべて正解という事はないだろうし、立場などが変われば、見方も変わってくる事もあると思う。
ただITエンジニアで現在レベニューシェアに誘われている人は、(騙されたりする事がないように)このブログを一つの参考程度にしてもらえたらと思う。
殺すからこそ愛するのです
「殺すからこそ愛するのです」
これはとある畜産業者の方がテレビで言っていた言葉です。この方は牛一頭一頭に名前を付け、愛情を注いでいました。
私の知識ではこういった食用の家畜を育てている方々は、家畜に対して情を移さないようにするのが常識、という物でした。情が移り、食用などにする為に殺さなければならなくなった時に心が痛む為です。これは専門職としている人以外でも容易に想像でき、理解できる事でしょう。
ですが、「殺すからこそ愛するのです」と言っている人がいました。この人は家畜を殺す事で、その家畜の肉を与えてもらえる。だから殺すまでにできるだけ愛情を与えておく必要がある、という考えを持っています。このような考え方は私にはありませんでした。
家畜を愛し、情が移ったら殺す時に心が痛む。だから愛さないし、情を移さないようにする。このような考えは、考えてみれば自分の心の痛みだけを主観に置いたものです。相手、対象の事など考えれていません。真の思いやりとはこういった態度を言うのかもしれません。
ただこのような考えを人間関係にそのまま適用してしまうのは危険です。私は愛しているのだからあなたは私の期待に沿うべき、という愛の束縛になってしまう可能性があります。例え愛する家族であっても、他者はその人の期待に全て応える義務はありませんし、独立した個人として扱うべきです。
実際に、「殺すからこそ愛する」という考えを持って自分が同じように畜産業者としてやっていけるかと想像すると疑問です。私の場合は犬などペットを殺処分ではなく、寿命などで死んだだけでもかなりの心の痛みを伴います。畜産業者の子供として生まれ、このような事実に直面するともしかしたらグレてしまうかもしれません。
心の痛みとまで言ってしまうと少し大げさかもしれませんが、このような人生の悩みに関しては、痛みを引き受けない事で人は不幸になる事が往々にしてあると思います。例えば悪気などないが、自身の心の痛みを無意識的に避ける事で、他者に対して不寛容、思いやりを欠いた行動になってしまい、人間関係の悩みやトラブルに繋がってしまうなど。
ただこのような事実は理屈としては分かったとしても、人生で生きる上でそのまま適用するのは難しい物です。激情などの感情も一瞬でやってきますし、コントロールしようとすると返って悪化してしまうような事もありますので。。