ごった煮

職業はITエンジニア、趣味はバイク、ゲームなどです。ITに限らずいろんな事をカオスに書いていきます。

ポンペイ展

東京国立博物館でやっていたポンペイ展に行ってきた。

まず、ポンペイについてであるが、これはイタリアのあの靴のように見える半島の靴の靴紐くらいの位置に位置する古代都市である。すでにうろ覚えの記憶になっているが確か紀元50年くらいに近隣の火山が大噴火を起こして、瞬く間に街は壊滅した。その街が後年、井戸掘りか何かによって明らかになり、当時のままに保全された街が採掘された為、考古学的価値が非常に高い状態で様々な遺物や建築物が発見されたというのが経緯らしい。

当時の噴火の様子、これは実際のものではなくてシュミレーションであるが。後は町並みのようすなども色々と再現されており、ありありと当時の生活風景や様子、空気感なども感じ取る事ができた。ただの歴史的な展示物ではなく、想像力を掻き立てる仕組み、そこにストーリーを持たせるような見せ方とその導線としての展示順など、ただの考古学品の展示ではなく、一つのエンターテイメントとしてうまく提供されていたと思う。この展示順になんの意図があるのか?なぜこういう見せ方をしているのか?狙いは何か?そういった観点で俯瞰してみるのも面白い。

絵画について。不思議なことにどことなくの懐かしさを覚えた。特定の絵ではなく、幾つかの作品を観覧してのその感想である。この懐かしさは古い記憶が想起されることによる懐かしさではなく、自然物、例えば夕日などの美しさに心打たれた時に感じるような、対象の根源への共鳴の様な形で発揮される懐かしさであった。

この懐かしさがどこからくるのか?絵画自体についてはその技法や正確さ、遠近法などの活用については今の小学生ぐらいでもそれを上回る絵をかける子はいくらでもいると思うレベルのものだ。絵の技術の高さについては原始時代に洞窟に描かれていた絵よりは進歩しているなという程度だ。だからこそ、何か我々の根源に何か訴えかけるものを秘めているのかもしれない。

例えば現在絵画で名画として引き継がれているもの。人物画であったり風景画であったり。それらは静止画で基本的に動作を描いたものは少ない。しかし、ポンペイ時代の絵画はほぼすべてで何らかの動きが絵の中で表現されている。これはこの時代の人々が絵にダイナミズムを求めたのかもしれない。芸術とはダイナミズムの表現であったのかもしれない。絵画の技法自体が稚拙すぎて、対象の内在、言葉によらない美しさなどを表現するには技術の進歩を待たなければならなかったのかもしれない。

しかし、原始時代の洞窟への壁画を、自分の少ない記憶の中から思い返してみると、そこには必ずダイナミズム、なんらかの動きが表現されていたように思う。我々はダイナミズムに興味関心が向きやすいという事は自明の事であると思う。自明であるからこそ現在ではそれに興味関心が向くことはない。当時では普通であったことが現代というフィルターを通すと奇異に写る。もしかしたら当時の芸術には記録的な側面があったのかもしれない。その記録に動きを追加する事によってそれは生きたものになる。それは一種の呪術的試みでもある。

我々は一つの知識を得る事で根源から離れ、また別の知識を獲得する事で真理から遠ざかっているのかもしれない。知る事で、情報に汚染される事で見えなくなる景色や世界というのは確実に存在するのだ。例えばであるが、これを一般の社会人が行うのは至難の技であるが、全く情報に触れない、メディア、インターネット、新聞からの情報を絶ち、世捨て人のような日々を送った後に、現代へと帰ってくると分かる。情報の鮮度というのはその総量に反比例するのだ。

作品の展示物の紹介文の一つに興味深いものがあった。絵画や壁画などの芸術品がその家の社会的立場を示す為の舞台装置になっていたという主張である。これにはなる程と思わされた。美術品はそれ自体の希少性と芸術性だけでなく、所持者と所持者以外の者、社会との間のシンボルとしての価値が創造されている。人間社会での価値とは相対評価の事であり、共通認識、または共通信仰と言ってもいいだろう。ある場所では価値がある事であっても別の場所にいけば全くの無価値になるというのは往々にしてある事である。

紀元50年くらいの都市で四方数キロ、1万人ほどの人々が暮らしていたらしいが、家電や電化製品などはもちろんないが、それ以外の現代でもあるようなお店については普通にあり、下水道も整備され、そして一部の上流の家庭については芸術品の数々で家を装飾する事ができた。奴隷という制度があったからこそ、成り立った都市なのかもしれないが、想像よりは近代とそこまで遜色ないような生活をしていたことについては素直に驚きを覚えた。人間というのは2000年くらいでは余り変わりはないのかもしれない。我々は先人が積み重ねてきた発見や発明、天からの啓示の上に立っているに過ぎず、それ自体は特に変わりはないのかもしれない。

創造性については過去の時代の人々ももちろん持っていたであろうが、芸術性についてはどうだろうか?今回のポンペイ展を観覧することでそれはもちろん持っていたと断言できるものではあるが、芸術性とはそもそも一体何なのだろう?という疑問が想起された。

言葉によらないものを明らかにする事。それを明らかにする事によって人々に感動、共鳴、驚きを与えるもの。本質のメタファーを使った表現。ロジカルではなく感覚。文字ではなく音楽。人間の持つ可能性が示す光。悟りや真理は言語表現によっては説明できないという。芸術はそういった何かをもしかしたら含んでいるのかもしれない。もしかしたらそれ自体なのかもしれない。我々が本来知っているもの。我々が過去知っていたもの。本来塞がれているチャンネルが開かれている稀有な人物を通してのみそれを垣間見る事ができる。

だがもし芸術が言葉によらない何かでできているのであれば。こうして言語でそれを明らかにしようとする試みは、全くの徒労で終わるという事であろうか。