ごった煮

職業はITエンジニア、趣味はバイク、ゲームなどです。ITに限らずいろんな事をカオスに書いていきます。

エヴァンゲリオン序を今更観て

エヴァンゲリオンはすべての人の快感原則に刺さるように作ってある」

正確な文は最早覚えていないがこれは庵野監督が述べた言葉だ。 非常に印象的でその詳細についてずっと気になっていた。

エヴァンゲリオンの劇場版を今更観ようと思ったことに特に理由はない。 いつか観ようと思っていたシリーズであり、少し前に完結したこともあって観たい映画リストには入っていた。

TVシリーズは衝撃的であり、エンディングについては今でも印象に残っている。 世紀末の時代でどこか厭世的空気が充満していたような気がする中、そういった時代背景、隠れた集団心理をうまく捉えていたように今となっては思う。

熱狂的信者、とまではいかないがエヴァンゲリオンという作品はそれになりに好きで、また映画もアニメも好きだった自分がなぜエヴァンゲリオンの劇場版を当時観なかったのだろうか?

はっきりした理由は今となっては自分でも分からないがシリーズ物になるということと、そのあまりの人気に天の邪鬼的な心理が働いたのかもしれない。 またエヴァンゲリオンは面白いし傑作であるが当時の評価と人気は過剰と感じており、それに併合されることによる自身の大衆化を嫌ったのかもしれない。

さて今回エヴァンゲリオン序を観るに当たって、「すべての人の快感原則」という所を意識して観てみた。 このような鑑賞態度は監督に怒られるかもしれないが、それによって知的な楽しみが一つ増えるのも事実だ。 一種の謎解きである。おそらく観客の数だけ答えが違う類の主観度が非常に強い謎解きだ。

以下は一部ネタバレを含む。

自分の中でのダメキャラの代表格はのび太である。 だがシンジもダメさ加減では負けていない。紆余曲折を経て結局乗るのかい!という心の中の突っ込みと共に序盤、物語は展開していった。 のび太もシンジもイライラさせられるキャラであるがどこか憎めない所があるのはなぜだろう?

シンジについて序盤を観て感じたのは、結局彼が求めているのは承認欲求だという所だ。 これはすべての人が持つ根源欲求でシンジというキャラは観ている人の鏡構造になっているのかもしれない。

映像的な陳腐さみたいなものを感じることは全くなかった。 もう15年以上前の作品なのにそれを感じさせないのは、丁寧にクオリティ高く作っているからであろう。 一部の映像表現については現在でも感嘆を禁じ得ない。

エヴァという作品は一種のアンチテーゼという印象だ。 社会的に常識とされているもの、そのものに対するアンチテーゼだ。 これは連載アニメの最終回の影響も強いのかもしれない。

序盤、メタファーによるカタルシスの構造が出てくる。 シンジ並びに社会の行動原理そのものを嘲笑うかのようなゲンドウ。 その行動原理がATフィールド、使徒という代替となり、それをエヴァという代替を通して破壊してカタルシスが生じるという構造だ。 ついでにエヴァの攻撃はゲンドウも隠喩的に攻撃している。 ゲンドウとは一種の行動原理、そしてシンジと対立する大人社会そのものである。

TV版のエヴァの詳細はすでに覚えていない。 だがこういったメタファーによるカタルシス構造は直接的なものと比べると暗示的なものの方がもたらす効果が強いのだろうか? それとも監督の好みによるものだろうか? 庵野監督の最近の作品だとゴジラは観たが、こうようなメタファーの使用は記憶にない。 こういったメタファーはエヴァという作品を貫く一種の手法のような気がする。

暗示的といえばその後の病院での過去の記憶の場面は新たな謎も提起されて印象的だ。 それ以外でも人間の深層心理を表す、または刺激するような演出が所々出現する。 もしかするとそれらはサブミナル的な暗示効果を狙っているのかとふと思った。 やり過ぎないサブミナル効果なら庵野監督ならやりそうだ。

エヴァはその内容が難解だと評価されていた気がする。 メタファーと暗示を多用すれば難解にもなるだろう。 だがそこに意味性はほとんどないのではないだろうか? メタファーが多用されている村上春樹の作品に意味性を求めても意味がないのと同じように、個人的にはこういった類のものに意味性を求めても意味がないように思う。 一緒にするなと怒られるかもしれないが。

ゲンドウに指示を与える謎の人たち。 彼らは大人と社会の象徴だろう。 シンジが子供でゲンドウたちが大人でそこに境界ができている。 メタファーとしての大人と子供の対立構造だ。 ミサトはその境界を行き来する、母親の代替のような役割を担っている。

自分がTV版のエヴァをリアルタイムに観たのは高校生の頃だった。 TV版の詳細な記憶はないが、当時は脳死で作品を楽しんでいたように思う。 全くもって外しているかもしれないが、こうした考察ができることは年を重ねて成長している証左の気がして少しうれしい。

ある程度気持ちよくさせた後、中盤付近で一気に落とし、観客にトラウマ体験をさせている。 それまで落として気持ちよくさせてと上下に振れていた感情を一気に落とした印象。 そのトラウマ体験を起点として後の物語を印象的に展開。 情報量の多さと展開、テンポの速さで、トラウマ体験の沈鬱さは感じさせないようになっている。 ミサトの思い切った施策などはシンジのトラウマ体験がいいDiffとなっている。

トラウマ体験の部分の演出は、与えるストレス量と後の物語の展開のさせ方など、相当気を使ったのではないだろうか? 強いストレスを受けたはずのシンジが、その後のシーンでケロッとしている場面を観てそんな事を感じた。

この情報量と展開の速さは毎週放送のTV版では難しいのではという印象。 映画ならではの面白さといった感じがする。

シンジは父とレイの二人からの愛を望んでいるが、二人ともに愛の提供を拒否されている。 この構造にしているのはなぜなんだろうか?  これはストレスとフラストレーションが溜まるだけの構造のように思われる。 愛情の飢餓問題によって作品への注目効果を狙っている? だとしたら感情コントロールによる強烈な注目効果である。

さて中盤から終盤にかけてシンジは承認と愛情が不足した。 いよいよ物語は終盤のクライマックスへと移っていく。

結局、承認も愛情も隠喩的に手に入れたシンジ君。 分かっていたことだが予定調和だからこそ、その展開の破壊がないかと僅かに期待してしまった。

「すべての人の快感原則」という部分。 たぶん映像的な快感演出にプラスして、承認や愛情などの人間の根源欲求を絡ませた辺り。 その辺りにかかっている気もするが、その答えを知るのは監督のみであろう。

結論、面白かった。それが全てです。 そして続編を観るのが楽しみであります。