ごった煮

職業はITエンジニア、趣味はバイク、ゲームなどです。ITに限らずいろんな事をカオスに書いていきます。

FF14 新生エオルゼア2.0を終えて

いつかやろう、いつかやろうと思っていたが結局手をつけられていなかったゲーム。それがFF14だった。

 

良い評判は目にし、今ではYoutubeなどでFF14の運営の情報なども見て、やりたいなとは思っていた。だが手をつけられていなかった。

 

その理由は簡単には以下になると思う。

  • ハスクラ要素もありそうで上は青天井で時間が容易に溶けそう
  • 上記もあって廃人懸念(筆者はハスクラ系RPGに年間で2000時間くらい溶かしたことがある)
  • アップデートが繰り返されており、メインストーリーのクリアだけでもかなりの時間がかかりそう

 

一番の要因は廃人懸念である。だがこれは実際にゲームをやってみて現状では回避できるのではないかという感触を得ているが、パッチ2.0まではまだ高難易度コンテンツもなく、チュートリアルといってもいいので、この先をプレイしてみないとはっきりとしたことはわからない。

 

懸念はあったが、人間いつ死ぬからわからないので、やりたいことはやってしまおうと思ったのが、筆者がFF14に手を出した理由だ。

 

さてこのFF14は面白いのか?

A: 面白い。

実際やってみてストーリーからゲームシステムまで、素人ながらよくできていると感心させられた。

 

ゲームシステム

ではまずはゲームシステムについて。

最初に断っておくが筆者はMMOを今までやってきたわけではないので、MMO的なことについては語るところは特にないので、そちらについては言及しない、というかできない。

 

まず最初に感じたのは「面白いようにレベルが上がる」だ。

レベルが次々に上がっていきどんどんクエストが消化されていく。

このクエストが次々に消化されるというのも気持ちがいいし、レベルが次々に上がるというのも気持ちがいい。

そしてプレーヤーをある程度虜にしたタイミングでレベルがストーリー相応の上昇になっていく。成功体験を積み重ねたのちに、ストレスに対する耐久度を上げて、難易度を上げていく仕組みだろう。

正直序盤のストーリーの印象はほとんどないが、最初のチュートリアル的な所までに、いかにプレーヤーをゲームに引き込むかを、相当苦心したのではないかと思われる。

 

次にFF14で好印象なのは、レベル上げに時間があまりとられないところだ。

途中何回かレベリングは行ったが、基本メインストーリーを進めていけば、レベルは相応に上がるようになっている。

 

ゲームの難易度については、終盤になるとボス戦のギミックも少しずつ難しくなり、初見殺しのようなギミックも織り込まれていくが、その難易度の上げ方も秀逸だと感じる。

またプレーヤーが困難に当たった時、そしてそれを解消した時の快感を与えるようなゲームシステムのバランスがいい。

 

ストーリー

主人公上げという言葉があるが、このゲームは序盤にプレーヤーが気持ちよくなるように、主人公上げを結構行っていた。これは結構あからさまにされているので気づく人は気づくだろうが、ただ気づいたからといって嫌悪感を感じるものではなく、自分はきっちり気持ちよくさせてもらったように思う。

はっきりいって序盤はストーリーの内容というより、どうやってプレーヤーにゲームに夢中になってもらうかの方が重要だと思う。これは人によって意見の分かれる主観度が高い部分かとも思うが、自分がFF14の序盤に感じたのはなろう的な要素だ。主人公上げはなろうのおはこで、FF14みたいな超大作でもこの手法を取るんだなと逆に新鮮味を感じた。

 

それではストーリーについて、これから先はネタバレ的な要素も入ってくるので、注意してもらいたい。

 

王道なFFを継承しつつ、FF7的な魔道兵器なども出てきて、過去作の良い所も取り入れた、俺の考える最高に面白いFF、をたぶん作ったのだと思う。

新生エオルゼアはざっくりいうと、対帝国の王道的なファンタジーストーリーである。

序盤ではゲームの世界観と各国の持つ課題と問題を把握させ、中盤で大きなストレスを伴う、大きな展開が入る。そしてこのストレスを与えたからこその、終盤での大きな盛り上がり。

FF得意の映画的な手法などもあり、王道であがるが、十分に満足のできる骨太のストーリーになっているという印象だ。

中盤の展開については予測できずいいものであったが、それから先、終盤までは王道で予測のつくものとなったので、そこは難しい所だが、少し残念が部分かなとも思う。

だが人はストレスを与えられた後は特に予測できないことを嫌うので、最初の大型コンテンツとしてはこの造りで問題ないのかなとも思う。

まだまだコンテンツは残っているので、ストーリーのオリジナル性などは今後に期待した。

 

まとめ

とまあだらだらとここまでFF14について書いたのだが、これでFF14の魅力が伝わるだろうか?

FF14を筆者なりに超簡単に要約して言えば「ストーリーも面白いMMO」である。

現在公開されている部分でメインコンテンツのクリアだけでも100時間超はかかりそうだ。

まだ新生エオルゼアのパッチ2.0部分までしかやっていないので、この先をやるのが今から楽しみだ。

 

エヴァンゲリオン序を今更観て

エヴァンゲリオンはすべての人の快感原則に刺さるように作ってある」

正確な文は最早覚えていないがこれは庵野監督が述べた言葉だ。 非常に印象的でその詳細についてずっと気になっていた。

エヴァンゲリオンの劇場版を今更観ようと思ったことに特に理由はない。 いつか観ようと思っていたシリーズであり、少し前に完結したこともあって観たい映画リストには入っていた。

TVシリーズは衝撃的であり、エンディングについては今でも印象に残っている。 世紀末の時代でどこか厭世的空気が充満していたような気がする中、そういった時代背景、隠れた集団心理をうまく捉えていたように今となっては思う。

熱狂的信者、とまではいかないがエヴァンゲリオンという作品はそれになりに好きで、また映画もアニメも好きだった自分がなぜエヴァンゲリオンの劇場版を当時観なかったのだろうか?

はっきりした理由は今となっては自分でも分からないがシリーズ物になるということと、そのあまりの人気に天の邪鬼的な心理が働いたのかもしれない。 またエヴァンゲリオンは面白いし傑作であるが当時の評価と人気は過剰と感じており、それに併合されることによる自身の大衆化を嫌ったのかもしれない。

さて今回エヴァンゲリオン序を観るに当たって、「すべての人の快感原則」という所を意識して観てみた。 このような鑑賞態度は監督に怒られるかもしれないが、それによって知的な楽しみが一つ増えるのも事実だ。 一種の謎解きである。おそらく観客の数だけ答えが違う類の主観度が非常に強い謎解きだ。

以下は一部ネタバレを含む。

自分の中でのダメキャラの代表格はのび太である。 だがシンジもダメさ加減では負けていない。紆余曲折を経て結局乗るのかい!という心の中の突っ込みと共に序盤、物語は展開していった。 のび太もシンジもイライラさせられるキャラであるがどこか憎めない所があるのはなぜだろう?

シンジについて序盤を観て感じたのは、結局彼が求めているのは承認欲求だという所だ。 これはすべての人が持つ根源欲求でシンジというキャラは観ている人の鏡構造になっているのかもしれない。

映像的な陳腐さみたいなものを感じることは全くなかった。 もう15年以上前の作品なのにそれを感じさせないのは、丁寧にクオリティ高く作っているからであろう。 一部の映像表現については現在でも感嘆を禁じ得ない。

エヴァという作品は一種のアンチテーゼという印象だ。 社会的に常識とされているもの、そのものに対するアンチテーゼだ。 これは連載アニメの最終回の影響も強いのかもしれない。

序盤、メタファーによるカタルシスの構造が出てくる。 シンジ並びに社会の行動原理そのものを嘲笑うかのようなゲンドウ。 その行動原理がATフィールド、使徒という代替となり、それをエヴァという代替を通して破壊してカタルシスが生じるという構造だ。 ついでにエヴァの攻撃はゲンドウも隠喩的に攻撃している。 ゲンドウとは一種の行動原理、そしてシンジと対立する大人社会そのものである。

TV版のエヴァの詳細はすでに覚えていない。 だがこういったメタファーによるカタルシス構造は直接的なものと比べると暗示的なものの方がもたらす効果が強いのだろうか? それとも監督の好みによるものだろうか? 庵野監督の最近の作品だとゴジラは観たが、こうようなメタファーの使用は記憶にない。 こういったメタファーはエヴァという作品を貫く一種の手法のような気がする。

暗示的といえばその後の病院での過去の記憶の場面は新たな謎も提起されて印象的だ。 それ以外でも人間の深層心理を表す、または刺激するような演出が所々出現する。 もしかするとそれらはサブミナル的な暗示効果を狙っているのかとふと思った。 やり過ぎないサブミナル効果なら庵野監督ならやりそうだ。

エヴァはその内容が難解だと評価されていた気がする。 メタファーと暗示を多用すれば難解にもなるだろう。 だがそこに意味性はほとんどないのではないだろうか? メタファーが多用されている村上春樹の作品に意味性を求めても意味がないのと同じように、個人的にはこういった類のものに意味性を求めても意味がないように思う。 一緒にするなと怒られるかもしれないが。

ゲンドウに指示を与える謎の人たち。 彼らは大人と社会の象徴だろう。 シンジが子供でゲンドウたちが大人でそこに境界ができている。 メタファーとしての大人と子供の対立構造だ。 ミサトはその境界を行き来する、母親の代替のような役割を担っている。

自分がTV版のエヴァをリアルタイムに観たのは高校生の頃だった。 TV版の詳細な記憶はないが、当時は脳死で作品を楽しんでいたように思う。 全くもって外しているかもしれないが、こうした考察ができることは年を重ねて成長している証左の気がして少しうれしい。

ある程度気持ちよくさせた後、中盤付近で一気に落とし、観客にトラウマ体験をさせている。 それまで落として気持ちよくさせてと上下に振れていた感情を一気に落とした印象。 そのトラウマ体験を起点として後の物語を印象的に展開。 情報量の多さと展開、テンポの速さで、トラウマ体験の沈鬱さは感じさせないようになっている。 ミサトの思い切った施策などはシンジのトラウマ体験がいいDiffとなっている。

トラウマ体験の部分の演出は、与えるストレス量と後の物語の展開のさせ方など、相当気を使ったのではないだろうか? 強いストレスを受けたはずのシンジが、その後のシーンでケロッとしている場面を観てそんな事を感じた。

この情報量と展開の速さは毎週放送のTV版では難しいのではという印象。 映画ならではの面白さといった感じがする。

シンジは父とレイの二人からの愛を望んでいるが、二人ともに愛の提供を拒否されている。 この構造にしているのはなぜなんだろうか?  これはストレスとフラストレーションが溜まるだけの構造のように思われる。 愛情の飢餓問題によって作品への注目効果を狙っている? だとしたら感情コントロールによる強烈な注目効果である。

さて中盤から終盤にかけてシンジは承認と愛情が不足した。 いよいよ物語は終盤のクライマックスへと移っていく。

結局、承認も愛情も隠喩的に手に入れたシンジ君。 分かっていたことだが予定調和だからこそ、その展開の破壊がないかと僅かに期待してしまった。

「すべての人の快感原則」という部分。 たぶん映像的な快感演出にプラスして、承認や愛情などの人間の根源欲求を絡ませた辺り。 その辺りにかかっている気もするが、その答えを知るのは監督のみであろう。

結論、面白かった。それが全てです。 そして続編を観るのが楽しみであります。

ポンペイ展

東京国立博物館でやっていたポンペイ展に行ってきた。

まず、ポンペイについてであるが、これはイタリアのあの靴のように見える半島の靴の靴紐くらいの位置に位置する古代都市である。すでにうろ覚えの記憶になっているが確か紀元50年くらいに近隣の火山が大噴火を起こして、瞬く間に街は壊滅した。その街が後年、井戸掘りか何かによって明らかになり、当時のままに保全された街が採掘された為、考古学的価値が非常に高い状態で様々な遺物や建築物が発見されたというのが経緯らしい。

当時の噴火の様子、これは実際のものではなくてシュミレーションであるが。後は町並みのようすなども色々と再現されており、ありありと当時の生活風景や様子、空気感なども感じ取る事ができた。ただの歴史的な展示物ではなく、想像力を掻き立てる仕組み、そこにストーリーを持たせるような見せ方とその導線としての展示順など、ただの考古学品の展示ではなく、一つのエンターテイメントとしてうまく提供されていたと思う。この展示順になんの意図があるのか?なぜこういう見せ方をしているのか?狙いは何か?そういった観点で俯瞰してみるのも面白い。

絵画について。不思議なことにどことなくの懐かしさを覚えた。特定の絵ではなく、幾つかの作品を観覧してのその感想である。この懐かしさは古い記憶が想起されることによる懐かしさではなく、自然物、例えば夕日などの美しさに心打たれた時に感じるような、対象の根源への共鳴の様な形で発揮される懐かしさであった。

この懐かしさがどこからくるのか?絵画自体についてはその技法や正確さ、遠近法などの活用については今の小学生ぐらいでもそれを上回る絵をかける子はいくらでもいると思うレベルのものだ。絵の技術の高さについては原始時代に洞窟に描かれていた絵よりは進歩しているなという程度だ。だからこそ、何か我々の根源に何か訴えかけるものを秘めているのかもしれない。

例えば現在絵画で名画として引き継がれているもの。人物画であったり風景画であったり。それらは静止画で基本的に動作を描いたものは少ない。しかし、ポンペイ時代の絵画はほぼすべてで何らかの動きが絵の中で表現されている。これはこの時代の人々が絵にダイナミズムを求めたのかもしれない。芸術とはダイナミズムの表現であったのかもしれない。絵画の技法自体が稚拙すぎて、対象の内在、言葉によらない美しさなどを表現するには技術の進歩を待たなければならなかったのかもしれない。

しかし、原始時代の洞窟への壁画を、自分の少ない記憶の中から思い返してみると、そこには必ずダイナミズム、なんらかの動きが表現されていたように思う。我々はダイナミズムに興味関心が向きやすいという事は自明の事であると思う。自明であるからこそ現在ではそれに興味関心が向くことはない。当時では普通であったことが現代というフィルターを通すと奇異に写る。もしかしたら当時の芸術には記録的な側面があったのかもしれない。その記録に動きを追加する事によってそれは生きたものになる。それは一種の呪術的試みでもある。

我々は一つの知識を得る事で根源から離れ、また別の知識を獲得する事で真理から遠ざかっているのかもしれない。知る事で、情報に汚染される事で見えなくなる景色や世界というのは確実に存在するのだ。例えばであるが、これを一般の社会人が行うのは至難の技であるが、全く情報に触れない、メディア、インターネット、新聞からの情報を絶ち、世捨て人のような日々を送った後に、現代へと帰ってくると分かる。情報の鮮度というのはその総量に反比例するのだ。

作品の展示物の紹介文の一つに興味深いものがあった。絵画や壁画などの芸術品がその家の社会的立場を示す為の舞台装置になっていたという主張である。これにはなる程と思わされた。美術品はそれ自体の希少性と芸術性だけでなく、所持者と所持者以外の者、社会との間のシンボルとしての価値が創造されている。人間社会での価値とは相対評価の事であり、共通認識、または共通信仰と言ってもいいだろう。ある場所では価値がある事であっても別の場所にいけば全くの無価値になるというのは往々にしてある事である。

紀元50年くらいの都市で四方数キロ、1万人ほどの人々が暮らしていたらしいが、家電や電化製品などはもちろんないが、それ以外の現代でもあるようなお店については普通にあり、下水道も整備され、そして一部の上流の家庭については芸術品の数々で家を装飾する事ができた。奴隷という制度があったからこそ、成り立った都市なのかもしれないが、想像よりは近代とそこまで遜色ないような生活をしていたことについては素直に驚きを覚えた。人間というのは2000年くらいでは余り変わりはないのかもしれない。我々は先人が積み重ねてきた発見や発明、天からの啓示の上に立っているに過ぎず、それ自体は特に変わりはないのかもしれない。

創造性については過去の時代の人々ももちろん持っていたであろうが、芸術性についてはどうだろうか?今回のポンペイ展を観覧することでそれはもちろん持っていたと断言できるものではあるが、芸術性とはそもそも一体何なのだろう?という疑問が想起された。

言葉によらないものを明らかにする事。それを明らかにする事によって人々に感動、共鳴、驚きを与えるもの。本質のメタファーを使った表現。ロジカルではなく感覚。文字ではなく音楽。人間の持つ可能性が示す光。悟りや真理は言語表現によっては説明できないという。芸術はそういった何かをもしかしたら含んでいるのかもしれない。もしかしたらそれ自体なのかもしれない。我々が本来知っているもの。我々が過去知っていたもの。本来塞がれているチャンネルが開かれている稀有な人物を通してのみそれを垣間見る事ができる。

だがもし芸術が言葉によらない何かでできているのであれば。こうして言語でそれを明らかにしようとする試みは、全くの徒労で終わるという事であろうか。

インデックス投資について

インデックス投資を初める前に調べた事。

参考にする場合は自己責任でどうぞー。

 

インデックスファンド

インデックスファンドとは、特定の指標・指数(インデックス)と同じ値動きするよう運用される投資信託のこと

投資信託

投資家から集めたお金をひとつの大きな資金としてまとめ、運用の専門家が株式や債券などに投資・運用する商品
その運用成果が投資家それぞれの投資額に応じて分配される仕組みの金融商品

インデックス

投資信託の種類

  1. インデックス型投資信託
  2. アクティブ型投資信託
    • 銘柄選択や投資手法などを独自に組み合わせた投資信託
  3. ETF(上場株式投資信託)

インデックスとETF違い

  • インデックスファンドは1日1回までしか売買ができないが、ETFはリアルタイムで売買が可能
  • ETF相場の変化に合わせて注文を行うといった買い方が可能
  • ETFでは株式投資と同様に指値・成行注文が可能
  • インデックスファンドには「毎月10日に1万円分を購入する」といった定時定額による投資や、分配金を自動で再投資するといった仕組みがあるが、ETFでは一部の銘柄のみ可能であるなど制限があるほか、自動で分配金の再投資ができない

インデックスファンドのベンチマーク使われる主な指数

  • 株式
    • 日本や米国など世界
  • 債券
    • 日本国債や先進国際など
  • REIT
    • 日本リートや先進国リート

東証REIT指数

REIT」は「Real Estate Investment Trust」の略語で、実物の不動産に投資する投資信託。実物の不動産に投資するといっても、不動産の値上がりで収益を狙うというよりは、保有不動産から得られる賃貸料収入を主な収益源としていて、その経費差引後の収益を分配する。

 

NISAとは?

NISAは、「NISA口座(非課税口座)」内で、毎年一定金額の範囲内で購入したこれらの金融商品から得られる利益が非課税になる、つまり、税金がかからなくなる制度

NISAの種類

  • 成年が利用できる一般NISA
    • 株式・投資信託等を年間120万円まで購入でき、最大5年間非課税で保有できる
  • つみたてNISA
    • 一定の投資信託を年間40万円まで購入でき、最大20年間非課税で保有できる
  • 未成年が利用できるジュニアNISA
    • 株式・投資信託等を年間80万円まで購入でき、最大5年間非課税で保有できる

株式投資にかかる税金

主に、売買の結果得た利益にかかる「譲渡益課税」、配当金を受け取ったときに天引きされる「配当課税」

株を買った値段より高く売れた場合、その差額の利益を譲渡益という
譲渡益は税率20.315%(所得税15.315%、住民税5%) (※)の「申告分離課税」として、給与等他の所得と区分して税金の計算を行う

 

インデックスファンドの種類

diamond.jp

 

www.maneo.jp

 

 

 

数学を学ぶという事

機械学習やAIといった領域を学ぶ必要性に駆られた為、ここ1年ぐらい数学を学んでいる。

 

そもそも高卒でしかも出席日数ギリギリで卒業した、なかばドロップアウトしたような学生生活を送っていた為、微分積分すらきちんと把握していない状態でのスタートであった。

 

現在は高校数学を簡単に学んだ後、大学数学の微分積分、線形対数、統計学を学び、集合と位相を学んでいる。

 

その中で得た知見(というか私の主観による感想にすぎないが)をつらつらと書こうと思う。

 

まず数学を学ぶ中で最初は理解できない事が多い。理解できないというより呑み込めないといったらいいだろうか。我々が一般的に生活する上ではそこまで厳密に求めない論理だからであろうか。

 

しかし最初は理解できずに呑み込めなかった概念もしばらくやっているとそれが自然な物として受け入れられるようになってくる。これは頭の良し悪しというよりは慣れたからとしかいいようがない。

 

数学は習うものではなく慣れるもの

 

まずこれがたったの1年程度であるがまず私が到達した知見である。

 

次に数学を学びだして、厳密化されていない論理を見ると苛っとする事があるようになった。これは今までなかった事で明らかに自分が変わった事に気づいた。

 

そもそも私はソフトウェアエンジニアなのでロジカルに物事を捉えて考えるという事には慣れているはずである。しかしプログラムではある程度の曖昧さが許容されている。これはisabelなどの定理証明ツールに触ってみると分かる。数学を学びなおした事である程度の曖昧さの閾値を超える論理の厳密性を求めるようになったのではないかと思われる。

 

よって厳密化されていない論理を見ると苛っとするようになったのは脳が変わったからであろう結論づけた。そしてそこから導き出されるのは

 

数学を学ぶという事は脳を変えるという事だ

 

という事である。これにはおそらく良い面と悪い面がある。厳密性を求める事で得られなくなるものも恐らくあるからだ。

 

そしてこれらから導き出される結論としては

 

数学を学ぶには時間がかかる

 

という結論だ。なんか頭が悪そうなやつがいうようなしょうもない結論になってしまった。。

 

「但し大学以降の数学に限る」

という但し書きを加えておこう。高校数学まではある程度、その基本概念は直観的に把握できる為である。

 

一部の天才は知らないが数学で難しい、抽象度の高い命題を理解できる人は頭がいいんだろうなと思っていた。しかし自身で実際に学んでみて思った事としてはその命題に対応できる脳になっているという理解の方が正しいのかもしれない。

 

機械学習やAIに限定すると大学基礎を押さえておけば大まかには大丈夫なはずだか、分からない事が分かるようになってくるのがなかば快感になってきた為、数学の勉強自体は趣味で続けようと思う。

 

そしてこれからまだ数学レベルが上がるにつれて脳の構造も変わってくるはずで、その時、世界などんな風に見えるのか楽しみだ。

 

頭がいいという事について

頭がいいという事について今回は考えていきたい。

現在AI関連について勉強しており色々と思う所があった。

AIで頭がいいとは?

現状のAIで頭がいいとは尤もらしい事を判定できる性能が高いという事になる。現状のAIでは思考ができているとは言い難い。ただ対象を限定した場合にはそれが尤もらしい事を判別する能力は一部人間をすでに超えている。

この尤もらしいというのは数学的な表現をすれば巨大な関数近似だ。人間が計算したら時間がかかりすぎるであろう膨大なパターンと複雑な計算をその対象に対する巨大な関数近似としてコンピューターに行わせている。

人の頭がいいとは?

IQが高い、学歴が高いなどの色々の定義があると思うが理数系の学者さんレベルであればその人が頭がいいという事に異論はないと思うからそういう人を今回は対象にしようと思う。

頭がいいとは理解が早い、頭の回転が早い、抽象と具体の間を自在に行きできるなどがあるだろう。AIで頭がいいとは尤もらしい事を判定できる性能が高いであるが、AIを勉強しているとこれは一部人間にそのまま当てはまるのではないかと思った。

例えば少し前に囲碁で有名になったディープラーニング。あれについては人間の直感の仕組みに近いのではないかと思っている。直感についてはその理由は説明できない。ディープラーニングについてもなぜそう判断したかを可視化、人が分かる形にするのは至難の業なのだ。

現状のAIの仕組みとして一般的なのはまず事前データを与えてそのデータのパターンをモデルという対象に学習させる。そしてその学習させたモデルを使用して現実の結果を予想するというような仕組みだ。

これを人間に置き換えて考えると人間も学習済みの多種多様なモデルがあり、それを無意識で取捨選択して精度の高い判断をしているのではないかと思われる。現時点では想像にすぎないが・・・。

AIがいつ人を超えるか?

AIといっても現状思考、考える事ができている訳ではない。因果関係、原因(パターン)から結果を推測する事はAIは得意だが結果から原因を推測する事も現状できない。将来的に考えればおそらく可能であるとは思うがそれにはノーベル賞クラスのいくつものブレイクスルーが必要だろう。

内閣府の記事だ。

http://2050年までに、AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現

要するに四次元ポケットを持たないドラえもんを実現させると言っている。最初見た時ネタ記事かなと思ったがどうやら本気みたいだ。

自ら思考できるAI・ロボットというのは科学として分かりやすいフロンティアかなとも思う。夢もあるがターミネーターの世界のように不安もある世界だろう。

個人的にAIが人間を完全に超えれば人間を排除しようとはしないのではないかと思う。人間が害というのはあくまで人間の倫理感でしかなくもっと根源的に言えばそれぞれの現象は科学反応でしかない。

完全なAIが生まれれば頭がいいという状態についての完全な定義が可能になるかもしれない。

乃木坂46に対する検証

今や国民的アイドル行っても良い人気ではないだろうか乃木坂46。

ドラマにバライティ、クイズ、モデル、舞台とほぼ芸能の全方位で活躍している。乃木坂46の人気が爆発したのはコロナに入ってからだと思っている。そしてTVタレントとしては初のYoutubeの動画サイトから人気が爆発したと思っている。

Youtubeからの人気爆発

TVタレントとしては今までなかったなかった事であろう。Youtubeからの人気爆発というような報道はされていないが私個人の実感としてはコロナ前か中くらいから乃木坂を動画で知り、乃木坂工事中という番組の面白さからグループをよく知る事になった。コロナ後明らかに乃木坂に対する報道、ニュースが増え、そして擦り寄りとも思えるような記事も増えていった。これはコロナでYoutubeを見る人が増えたプラス、Youtubeにより人気爆発となった為であろう。

乃木坂工事中という番組自体もコロナ禍で設楽工事中、日村工事中などそれぞれか面白いと思う部分をピックアップした物を放映していたがあれは明らかに動画サイトを意識したものだと思われる。

TVは絶対に認めないであろうが人気爆発の起点としてYoutubeなどの動画サイトが発端となった事により今後、TVと動画サイトの逆転現象は益々進むことであろう。ただ動画サイト自体の改善点もあるし、限界もある。

動画とTV

まず一つは制作費の問題。動画は宣伝用の動画であればある程度の制作費を望む事ができるがTVに比べれば低いのが現実であろう。制作費が低ければ提供するコンテンツにも影響を与える。

ただこの点のエンターティメントコンテンツ(TV)に関しては今まで独占産業でそのノウハウが提供されていなかったが動画という一般の人々でもある程度、面白いコンテンツを提供できる不特定多数の人々が参加できる媒体が生まれた事によって低コストで高品質なコンテンツを提供するノウハウなどの確立されていくのではないかと思われる。

よって制作費の優位性は費用対効果も相まって相殺されていくのではないだろうか。

それ以外に動画サイトとTVで制作費以外に起因しているコンテンツの格差の問題は何かあるだろうか?特に思い浮かばない・・。TVの優位性はその歴史(コンテンツ作りのノウハウも含めて)と現状で抱えているタレント達の優秀さ以外にはないと思うが、それも今後10年保たれるかどうかも疑問だ。

乃木坂46

乃木坂46に話を戻そう。私見ではあるが乃木坂46は「世界中の隣人よ」がリリースされた時のこのグループは完成したと思った。コロナ禍で多くの人が動画を見ている状況で乃木坂の人気は最高潮、その中での「世界中の隣人よ」はまるでSMAPのような国民的なアイドルの域まで到達したかなと思った。

ただ人気としてもそこが頂点なのかなという気もしている。女性アイドルという事もあり卒業という形で主要メンバーが卒業してしまう。新しいメンバーの子たちも良いがファン自体が疲れてしまうのではないかと思う。

アイドルグループ、運営としての方向性は間違っていないと思う。乃木坂の人気の根源にあるのは謙虚で礼儀正しく真面目な姿勢だと思う。

現状乃木坂を対象にした報道は明らかに擦り寄りでおかしい物も多くまだ大人になりきれていないメンバーに関しては勘違いさせてしまうのではないかというものも多い。おごりについては一部のメンバーには若干見受けられる。ここにどう対処していけるかが乃木坂の人気継続に一番影響するのではないかと思われる。