自由賞賛
自由に対する賞賛、特にアメリカ発信の自由に対する賞賛について今回は考えてみたい。
そもそもなぜこんな事を考えるようになったかという事について
最近だがより良い人生を送る為に最も大切なのは自己抑制だと考えるようになった。
大げさに言うと人生哲学が変わった。今までは特に深く考えずに一種の効率主義のような形で楽を追求しようとしていたように思う。
自己抑制力が必要だという根拠は人生は嫌な事の連続であるから。そして人が嫌がる事ほど一般的に価値が高く、それを頑張る事で人生を優位に進める可能性が高いから。
苦を避けるのではなく、苦に向かっていくような心的態度。そのような心的態度をとっていれば自己抑制力は高まり良い人生のスパイラルに乗れるような気がする。
これが前提1。
次に俳優の堺雅人が書いた書籍に品(ひん)とは何か?という事が書いてあった。
そこには品は周りの人々によって決められるものである種のルールや決まりごとによって定まってくるものだというような興味深い事が書かれていた。
ここでは「品とは何か?」という命題についてはどうでもいいのだが上流階級の人々は独特のマナーなどのルールがあり、せせこましい生き方をしているなと今まで自分は思っていた。気取ってて鼻につくぐらいの印象であった。
しかし前提1より自己抑制力について考えてみると上流階級の人々は自己抑制力を自然と高める生きたかをしているのではないかと思い至った。
自己抑制力は勝手につくものではない。才能としての個人差はあるかもしれないがそんなものはたかが知れていると思っている。(ただの印象論だが)
上流階級のすべての人々がそういう生活、ルールや規律の厳しい生活をしている訳ではないのだろうが(私は庶民なので想像するしかない)。無意識的な選択として、或いは、人生の知恵として、自らに規律を課し、それによって結果として自己抑制力が鍛えられるようにしたのではないか?仮説にすぎないがこの辺りは追求してみたらもしかしたら面白いかもしれない。
ここまでが前提2。
ここで自由についてwikipediaを見てみると以下のように定義されている
自由(じゆう、希: ἐλευθερία、羅: libertas、英: liberty, freedom)とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っている[1]ことをいう。哲学用語。
前提1と前提2より自由ってそもそも賞賛すべき物?
というクエスチョンが自分の中で提起された。自身が疑問に思ったのは以下のようなケースである。
上流階級の人々で自己を厳しく律している人々。子供の場合にこれは自らの意思や本性に従っているという状態にはならないと思う。また自らの意思と言うよりは思考停止状態で親や先人達の決まりを破る事による不利益の為に嫌々行っているという状態もあろうかと思う。定義としては自由には当てはまらないが結果としてはより良い人生を送れたというケースだ。
これは前提にあるような下記の二つの仮説を前提としている事は明記しておく。
- 仮説1:自己抑制力が高まるような生き方をしていたらより良い人生が送れる可能性が高まる。
- 仮説2:自らに規律を課し、生活をしている人々は自己抑制力が高まる。
仮説が正しいとすれば定義としての自由でない方がよい人生を送れる可能性が高い場合も多いように思われる。
アメリカ人の肥満率は2019年では10人に4人が肥満を示す割合となっているようだ。これは自由賞賛というよりは食生活や貧困などが多く関係しているのかもしれないが自己抑制力は低い人が多そうな印象を受ける。
アメリカの自由賞賛はご都合主義の部分も多し、プロパガンダもあると思うのでそれをそのまま受け取るのが良くないのは間違いない思う。