ごった煮

職業はITエンジニア、趣味はバイク、ゲームなどです。ITに限らずいろんな事をカオスに書いていきます。

「この世界の片隅に」をみて

映画「この世界の片隅に」を見ました。

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PS4でなんか面白い映画ないかなーと探してて、たまたま見つけた映画だったんだけど、結論から言うとすごくよかった。。

戦争映画ですが、涙頂戴な映画ではないです。自分は泣けなかった。「火垂るの墓」程重くはないし、泣けない。戦争を体験した主人公の女性の平凡な日常から戦時、戦後への経緯を描いた映画です。

では何がよかったか?と言うとアニメの映像の美しさ、声優のんさんの主役の声のハマり具合、そして何より平凡な日常を描いた映画を面白く見せてくれた所ですね。この映画は新しい映画体験をさせてくれました。

平凡な日常を描いていると言っても、なんか文化的な映画とかそういうのではないです。そういうのは面白くないから。。多分アクション映画を面白く見せるよりよほど難しいんじゃないかと素人ながらに思います。

観た後、知ったのですが、この映画評価がすごい高いようですね。みんなこの映画を観てどう感じてるんだろう?って思って少しくぐってみました。否定的な意見もあるけど、肯定的な意見の熱量が強いというのを感じましたね。

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eiga.com

さらにくぐっていくと専門家も絶賛。

ch.nicovideo.jp

アニメーションの未来を変えたとまで言ってますね。素晴らしい!個人的に印象に残ったのは天才でなくても傑作の映画を作れる、という所。

ここまで来ると片渕監督の事も知りたい。。

matome.naver.jp

資金がない中、映画作りを進め、家族4人で1日100円の極貧生活を送っていた事もあるようですね。制作期間約6年。まさに執念。

さてさて、これからが本ブログで書きたかった事です。この映画は新しい映像・映画体験と共に自分に希望をもたらしてくれました。その希望とは粘り強く努力を続ける事に対する正当性です。

アニメ映画で天才と呼ばれる人たちには、宮崎駿押井守庵野秀明などの人たちがいますが、片渕監督はそのようなエキセントリックな天才という感じはしません。映画を観ると、この監督は地道な努力をコツコツと積み重ねてきたんだろうな、と感じます。その結集としてこうした傑作映画が生み出されたんだろうなと。

最近読んだモチベーションの継続系の本で以下の本があります。

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この本には粘り強く努力する事で、才能がない人でも才能がある人で努力の総量が少ない人より結果として高い能力を持つことができる、という事を学術的に研究して、証明している事が書かれています。

片渕監督はこの本に書かれている事を地で行っている人ではないかと。もちろん天才と呼ばれている人もユニークな努力や稀有な才能を伸ばす努力などを常人より遥かにしているとは思います。しかし天才性の追及ではなく、地道な粘り強い努力をする事を肯定してくれた「この世界の片隅に」はここ10年ぐらいの映画体験の中でもっとも印象に残るものになりました。

ゲームで学んだ事

1年ぐらい前から好んで多くの時間をゲームに費やすようになった。

日本のみならず様々な国の人とも一緒にプレイをし、その中で色々な学びがあった。

人との関係性の中に目標が混じり合ったら人は強い動機付けとモチベーションを得る

そもそも自分が社会人になってからこんなにゲームにハマったことはなかった。なぜハマったかと考えて見ると、ボイスチャットでコミュニケーションを容易に取れるようになったのと、難しいミッションをクリアしたいとか対人戦で勝ちたいという動機だと思う。あとは少し低い動機になるがレアアイテム欲しさかと。

フランス人はクソ

オンラインゲームをやっていると海外の人ともやる機会がある。そして海外の人とやるといろんな特性が見えてくる。日本人は臆病で群れる。東洋人系は群れるのが多い。中国人は馬鹿なんじゃないかと思うようなイケイケの人がいる。韓国人は日本人に似ている印象。アメリカ人は意外といいやつが多い。但し少し独善的なやつもいる。欧米人は個人で行動しているやつが多い。イタリア人は不真面目な奴がいる。日本人以外は総じてゲームの個別のミッションのギミック(やり方)を理解していない奴が多い。そしてフランス人はクソ。

フランス人の何がクソなのかと問われると返答が難しいが、個人主義の極みをいっているような感じがする。そしておそらく日本人、東洋人などを見下している印象がある。

これは自分だけの印象なのかと思っていたら、2chで外人の中で一番ダメなのはフランス人という投稿があり、多くの人が同意していた。ゲームだけでも色々分かるものなのね。

怒る馬鹿

ゲームやっていると怒り出す馬鹿が結構な割合でいる。おそらく自己愛が強すぎるタイプ。怒っている理由は他の人から見ると何様?という事が多い。視野が狭く、自分だけの世界で怒っているから他の人から共感も得られない。自身も腹が立つ事もあるが反面教師になる。

idにkingつけてる奴はロクなのいない

これは前記の自己愛につながるかなと。俺が王様なんて主張している奴にロクなのはいないでしょう。まあ大体は当てはまらないと思うけど。

突き詰めれば心理戦

自分がやっているのがFPS系なのでエイム(銃弾を当てる技術)がうまいとかの要素が最も重要なのだか、なんで勝てないのか、なぜ負けるのかと突き詰めていくと心理戦に突き当たる。まあ心理戦も一つの要素にしかすぎないが、物事を多面的に見る事の重要性は学んだ気がする。勝てないのは下手なだけではないんだよね。

道徳観念の大切さ

自分がやってるゲームにDivisionというゲームがある。これはFPS系のRPGという位置付けのゲームだか、それにダークゾーンという対人エリアがある。このダークゾーンでは対人だけでなくゲームの敵もおり、アイテムも集めることができる。そして対人戦で勝つと集めたアイテムを奪うことができる。

ダークゾーンは個人で行く事もできるが4人までのパーティーで行く事もできる。パーティーは固定フレンドやオートマッチングで知らない人と行く事も可能。対人戦で人を攻撃するとそのパーティは全員ローグとなり、ローグでない他の人達に分かる仕組みになっている。

このようなゲームの仕組みになっており、裏切り、奇襲、不意打ちなど卑怯な振る舞いはなんでもありとなっている。そして対人エリアにも関わらず、対人戦を好まずローグを嫌っている人がいる現状。それは主に道徳的な理由から。人が頑張ってアイテム集めてるのに殺して奪って何が楽しいんだと。

自分も最初はローグになるのを避けていたが、それは徐々に薄れていき、今では積極的にローグをやっている。道徳観念って人の欲望を抑える為にあるのねっていうのに気づく。男は殺したい生き物だ。ゲームだからできる事だけど。道徳って突き詰めれば自己防衛の為の虚構なんだよね。戦争時に人を多く殺すと英雄だけど、平和な時だと最悪の犯罪者ってのはよく言われる事。

だから道徳観念は大切だと。逆説的だけど。

以上

個人主義から全体主義へ

最近世の中を見る目が変わった。かっこよく言えば人生観が変わった。

どのように変わったかと言えば、個人主義的なものの見方から、全体主義的なものの味方に変わったと言うべきであろうか

影響を受けたのは二つの概念だ

虚構と家族

虚構については別のブログで紹介している

dev-chiku.hatenablog.com

家族についてはフランスの現代最高の知性と言われるエマニュエル・ドットの家族制度の分類だ

エマニュエル・トッド - Wikipedia

エマニュエル・ドットは家族制度の分類を行い、その分類による、共通項や傾向を分析し、そしてソ連の崩壊などを予測した人物として知られている。

例えばドイツ人と日本人は似ていると言われるがそれは同じ家族制度に分類されるからだ。そしてその家族制度は国家にも影響を及ぼし、そして国家が違っても同じような傾向を持つことから違う国家でもあっても傾向などを予測する事ができる。

これは非常にユニークな考え方で、そして発見でもあると思う。いわゆる学問には全く興味はないがこのように自身の知見を広めてくれるような学びは積極的に取り入れたい。

家族制度による分類のすごい所は経済と全く関係がないような所から、経済的な予測が可能だという事を示した所だろう。この社会、世の中は複雑に絡み合っているが、考えもしないような所から全体への傾向が読み取れるのは興味深い。

話が変わるようだが、株価について、これを完全に予測することは不可能だという事が科学的に証明されている。あまりに多くの要素が絡みすぎて、計算によって予測しようとすると無限大となってしまう為だ。

よって我々は全く予測不可能な株価という仕組みで支えられている資本主義経済を生きているという事になる。そこには家族構成という要因も入る。そしてまだ我々が思いつかないような様々な要素、要因が絡み合っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

扇動者

有名なブロガーは扇動者である事が多い

アクセスや読者数を増やす為には読者の感情を揺さぶらなければならない

そうしないと印象に残らず、影響を与える事が出来ないからだ

有名な所だとイケダハヤトさんだろう

まだ東京で消耗してるの?

扇動者は対立軸を作り、その仮想敵に対する反発などを通して著者の考えに共鳴させる。集団の団結を強める為に外に敵を作る手法に似ている。韓国や中国が日本叩きをするのと原理は同じだ。

多くの情報が溢れている現代において、扇動者に惑わされないようにしなければならない。極論を言ってしまえば何も正しい事などないのだ。立場が変われば考え方が変わる。人はその数だけ正義がある。逆に厄介なのは自分が正しいと強く信じ、強い感情を発揮する人の方だろう。

一応断っておくが、イケダハヤトさんをDisっている訳ではないからね。扇動者を批判している訳ではなく、扇動者に惑わされないようにしようということなので。。

さてトランプvsクリントンの大統領選も終わったが、クリントンの敗戦の演説で気になる一節があった

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「正しいことのために戦うことは、価値のあることなんです」

彼女は正しいことの為に戦おうと言っている。この正しい事というのはなんなのだろうか?これは非リベラルな考え(差別主義的など)に対して正しくないと言っているのだと思われる。

彼女は大統領になろうとした人だからもちろん扇動者としての一面を持っている。そして彼女がいう事はある人にとっては正しいが、ある人にとっては正しくない。

人は本質的には無価値だ。私というのは私しか持っていない。しかし自意識の補強をしないとは私を維持できなくなる。私が存在しなければ、それは狂人か死人と同じになる。悟りを開いているような人は違うのかもしれないが、多くの人はそうだろう。だからこそ人は私を補強、補完してくれる扇動者達を求める。

 

 

虚構

虚構と言われてみんなはどんな風に思うだろうか?

あまりいい印象は持たないのではないだろうか?

辞書で引くと以下のような意味になる

dictionary.goo.ne.jp

ではこの世界が虚構で成り立っていると言われたらどう思うだろうか?

そんなはずはないと誰もが思うのではないかと思う

だがそういう風に主張している書籍があった

最近読んだ本でサピエンス前史という書籍になる

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この本では人類は虚構によって繁栄したとある

人々は少数ではお互いのコミュニケーションによって意思の疎通を図り、集団を構成する事ができる。しかしある程度以上、100人以上の単位となってくると人々は虚構を持ってしかまとまる事は出来ないと。ここで言う虚構とは古代では神話、現代では法律、宗教、国家、会社などを言う。

法律、国家などは本来、実態を持たないただの概念に過ぎない。それが意味を持っているのは人々がそれを支持し、信じ、従っているからだ。過去の慣習や観念などが意味をなさないように現代の法律、国家という概念も未来にはなんの意味も持たないかもしれない。

興味深かったのは虚構によって人類は見ず知らずの人々の協力を可能にし、国家という単位までの大規模な構成人員を得るに至ったという所だ。理屈としては分かるが、そのような発想はなく新鮮だった。

そうしてみると現代の世の中はほとんどが虚構によって成り立っていると言える。金融、法律、国家、会社、会計、等々、それらは本来、実態を持たない概念に過ぎない。そしてその虚構によって、それを疑う事を知らず、そうである事を知らずに、そうである事に注意を払わずに生きている人々のなんと多いことか!

現代において人が他の人に影響を与える為に最も強力な能力と言えば、それは虚構を作り出す能力だろう。スティーブンジョブズスマートフォンという虚構を生み出した。スマートフォンは実体を伴うものではあるが、人々が惹かれたのは虚構の部分だ。

スティーブンジョブズは現実湾曲フィールドを持っていたという。

kikaku-keiei.com

これは虚構を人々に浸透させ、信じ込ませ、広めるための能力だろう。

現状で虚構を作り出すのが最もうまい職業の人はコンサルタントだろう。彼らは何一つ実体を伴わず、主に彼らが作り出す、ストーリー(虚構)によって人々を引き込み、それで報酬を得ている。起業家にコンサル出身は多い。

そして真実とはそれを真実と信じ込ませたものが真実となるという事になる。真実とは概念であり、それすらも虚構に過ぎないのだ。

虚構という機構を知ってしまうと、一種の虚無主義的な思考に陥ってしまいがちだ。自分が好きな漫画の銃夢に次のようなセリフ(うろ覚え)がある。

「この世界が全て物理法則の結果に過ぎず、心が脳内の科学現象に過ぎないとしても、我は自分の意思で命じる。生きよと」

 

ディベートについて

ディベートという物を知っているだろうか?

自分は何かしらの議論などのテクニックという認識しかなかった。

図書館でランダムに書籍を見ていた所、「ディベート (図解雑学)」という本が目に止まり、借りて読んでみた。

https://www.amazon.co.jp/dp/4816341897

この書籍によるとディベートとは、特定のテーマを肯定側と否定側に分けて、互いに意見を戦わせ、論理的な優劣を競う論理ゲームの事を言うらしい。肯定側には立証責任があり、否定側には反証責任が生じる。

興味深かったのは批判された場合、必ず反論しなければならないという点だ。思ってもいない事でも論理的に正しければそれが正となるが故の反論なのだろう。

それぞれのテーマの知識、議論の構成、戦法、相手がどこを突いてくるかなど、様々な事が想定されるので、知的なゲームとしては楽しいのかもしれない。

そもそも私はなぜ「ディベート」などに興味を持ったのか?私は弁護士でも政治家でもなく、議論に勝たなければならない場面などほとんどない。

それはcakesという本やブログが読めるWebサービスでイギリス在住で海外の事を紹介している日本人の方(May_Romaさん)がおり、その中で海外の管理職、幹部層は学生時代から徹底的にディベートを叩き込まれるという記事を読んだからだ。

海外ではいつ部下に訴訟を起こされたり、寝首をかかれるか分からないらしい。その為、論理武装し、議論に負けないように学校の教育過程からディベートを叩き込まれるとの事だ。

海外の人は大変だなと思う反面、ディベートの論理的な説得や証明、反証はリーダーシップや指導的役割を担う場合は日本でも必要であろうスキルだと思う。さてそれではそれを身につける実践の場は日本にあるのだろうか?くぐってみると以下のような物が日本でもあるようだ。

日本ディベート協会

nade.jp

論理的な議論という事についてはディベートは有用だとは思うが、日本人は上下関係を重んじて、議論自体好まない事もある為、論理的であればいいという訳でもない。その辺りはバランス感覚が必要だと思う。日本で対等な立場以外でディベート的な議論を行えばほとんどの人が嫌がるのではないだろうか。

また議論に勝てばいいという物でもない。日本では「言い負かされた」という言葉もあるので議論に勝っても後で恨みに思われる事もあるだろう。「負けるが勝ち」のケースも往々にしてあると思う。

日本でテレビでやっている討論などは全くディベート的ではないと思う。基本的に相手が話している所にかぶせて話して、相手の考えや意見を形骸化するようなしょうもないテクニックばかり使っている。

ディベートの動画は下記のように幾つかあるようだ。

www.youtube.com

上記動画は見てみたが正直イマイチだなという感想。史上最強と銘打っているがそれが逆に安っぽくしているように思う。そもそも何で3対1になっているのかが分からない。

会議などで意見が出にくい時などの打開策としてディベートをするのは面白いかもしれない。論理ゲームとして議論する事で心理的な壁を突き破って、創造的な面白い意見が出てくるかもしれない。

プログラミングの適正について

日本でもプログラムを必修にしようかという議論が始まっているようだ。

www.asahi.com

またアメリカのオバマ大統領もプログラミング教育を推している。

オバマ氏、「すべての人にプログラミングを学んでほしい」Code部

このように昨今、IT化された社会においてプログラミング教育が重要視されているのが現状だ。

しかし実際にプログラマとして働いた事がある人なら誰でも分かっている事だが、プログラミングには適正がある。適正がないと思われる人はなかなかプログラムをサクサク書けるようにはならない。

情報元は忘れてしまったが、欧州でプログラミングの適正を調べる調査を行った記事を見た事がある。その記事によるとランダムにプログラミングの適正を調べる調査を行い、その結果、プログラミングの適正はいい大学を出ているとか、文系、理系は関係なく、プログラミングに向いていない人は全体の半分近くの割合だったそうだ。

プログラミングができるというのは頭がいいと同義のように思われている事が多いが、この記事によると学校の成績がいい、頭がいいからプログラミングができるという事は=(イコール)ではないという事のようだ。

ある一定割合の人は論理的に物事を考える事が苦手な人がいるらしい。そういう人は抽象的に物事を捉える力が高く、それによって一概に頭の良し悪しは決められないそうだ。

実経験として日本の有名大学を卒業した高学歴の人と仕事をした事があるが、そういう人の中でも向いていないだろうなという人はいた。ただ高学歴の人の方が相対的に仕事の面においても優秀である事は間違いないと思う。

こんな記事もある。

プログラマーは適性(向き不向き)で9割決まる | SE年収1000万までの道のり

現状の教育方針では入り口からプログラムの適正を調べて、適正のある人だけプログラミングの教育をするのではなく、公平性の観点から全員に行うようになっている。

適正があって、教育を受けなければプログラミングに興味を示さないような人には有効な施策であると思うが、適正がない人にとっては悪印象しか残さないような結果になるのではないだろうか。

また適正がない人が教育を受けたからといって、実際に職業として選択してしまった場合、不幸な結果になってしまう。

公正性は重要だと思うが、まず入り口で適正を診断して、その結果を当人が踏まえた上で選択できるようにする方がいいのではないだろうか。

そのようにすれば後々、専門学校や大学で高い学費を払って、卒業後、企業に就職する時、または、した後に適正がない事が判明するような悲劇は起こらないだろうと思う。

努力が才能に勝るというのは往々にして嘘だ。子供たちに成功者の美談によって夢を与えるだけでなく、シビアな現実も伝えていく事が大人の誠実な態度ではないかと思う。